<インタビュー>研究者と社会の安全を守る!東京大学環境安全研究センターの取り組み
研究の環境安全を守るための教育
研究室には日常生活では扱わない危険なものが多く存在しています。薬品やガスは扱い方を一歩間違えると爆発や火災のような大きな事故を引き起こしたり、深刻な環境汚染につながったりすることも。しかし、どれだけ気をつけていても、事故をゼロにすることはできません。起きてしまったときの正しい対処を知ることも被害を最小限に留めるためには重要です。
東京大学環境安全研究センターのセンター長である辻佳子教授は、研究開発現場における環境安全を守るために重要なのは教育だと語ります。同センターで実際に取り組まれている、その「教育」についてお話を伺いました。
―環境安全研究センターの活動内容を教えてください。
前身となった環境安全センターの発足(1975年)以来、学内の廃棄物管理及び環境監視業務を統括していましたが、現在は環境安全についての新しい教育手法の開発や実施、また、未来社会の安全・安心に関する科学的・定量的解析とモデルの構築といった環境安全に関する研究に力を入れています。
これは時代の要請だと考えています。研究内容が多様化し、分野融合型の学際的な研究も増えてきました。もはや、ルールを決めてそれを一方的に講習会で伝えるだけでは、効果的に環境安全を守ることはできません。環境安全についての根本原理を理解し、自分で判断して考えられる「課題解決型人間」が世の中に求められています。そのための新しい教育手法が必要なのです。
モデル事故から学ぶ実習・演習型教育
―具体的にはどのような教育を行っているのでしょうか。
たとえば液体窒素がとても冷たいということはみんな知っています。液体窒素が気化したら体積が700倍になるということも、理系の学生なら理解しているはずですよね。
そんな液体窒素が床にこぼれたら、いったい何が起きるでしょうか。一瞬にして気体になり、その場の酸素濃度が低下して、そこにいる人間が窒息死してしまうリスクが生じます。このことを、例えば「エレベーターに液体窒素を持ち込んではいけない」というルールとして覚えるのではなく、実習を通して自分の問題として学んでもらう教育を行います。
実習では、エレベーターに見立てた密閉空間にマネキン人形を置き、マネキンの口元、ひざ、足元にそれぞれ酸素センサーをつけます。その状態で実際に液体窒素をこぼすのです。液体窒素はこぼれた場所から気化して広がっていきますので、酸素濃度を測ると床に近い足元が一瞬にして5%未満になります。
液体窒素をこぼしたからといって、床にころがった容器を拾おうとしたらどうなるか、この結果から想像がつきますよね。しゃがんだ瞬間に即死です。
―恐ろしいですね。でも、とっさにやってしまいそうです。
「知識として知っているか」と「実践できるかどうか」は、まったく別ですね。このように現象を実際に酸素濃度を計測することによって可視化すると、「なぜ危険なのか」という根本的な理屈を知ることができ、状況が異なる場合も自分がとるべき行動についての判断ができるようになります。
ほかにも、様々な種類の白衣に引火したり、化学物質が飛散したりしたものを学生に見せ、また、そのときの状況を再現したビデオ教材を通して、実験時の服装について考えてもらうことも行っています。たとえば、「ポリエステル65%+綿35%」の一般的な白衣にアセトンがかかって不幸にして引火したらどうなるでしょうか。一瞬にして大きな穴が空いてしまいます。さらに、白衣の下にフリース(写真左)やウール(写真右)を着ていた場合は、貫通して皮膚まで到達し、溶けた洋服が肌に癒着してしまいます。
さらに、実際には実習できないような危険な事故や、自分は正しい操作をしていても周囲の人の操作ミスで起こるもらい事故を実習するための、バーチャルリアリティを使った教育教材も制作中ですよ。
―この授業はどの学部の学生を対象にしていますか?
座学・体験・実習・演習講座を組み合わせて、基礎教育・各論の専門教育・管理者向け教育といった段階的な環境安全教育の体系化により教育プログラムとして実装しています。
環境安全の基礎を学ぶ授業については、理系・文系に関わらず、全学部が対象です。環境安全の考え方、安全配慮姿勢、大学の活動と構成員の責任、コンプライアンス、防災、緊急時対応について学習します。
理科系学生や実験研究者については、実験研究における環境安全に関する理解を深めるために、実験安全の基本や実験室管理の基礎について学習します。さらには、研究分野に応じた各論を学ぶ講座もあります。こちらは工学部・理学部・薬学部・農学部などの学部学生を対象として、それぞれカリキュラムを改変し、分野に合わせた工夫をしています。
システムで考える環境安全学という総合学問領域
―センターではどのような研究を行っているのでしょうか。
当センターで行なっている研究は、「環境安全学」と呼ばれる新しい領域になります。工学も理学も法学も必要とする総合学問です。
研究開発現場を器具や薬品がある「場」として考えると、安全設備を充実させて「場」の環境をいくら整えても、人のオペレーションがまずければ「場」は危険な状態に陥ってしまいます。しかも、目的や作業内容や熟練度の違う複数の人たちが同時に実験操作をしている状況で、その場にいる人全員にとって、さらには周囲の環境にとって安全な状態を構築しなくてはなりません。
具体的な研究には、小さなことから大きなことまで様々あります。実験操作の定量化の一例として、アンプル瓶開封時の人の動作解析の研究が挙げられます。開け方は人によって違いますよね。ポキッと折ると、劈開面がギザギザになる。一方で、しっかり持って引っ張って開けると劈開面がきれいです。実際に被験者の指の動く軌道と速度、アンプル瓶にかかる圧力の経時変化を計測し、解析すると、人の動作と劈開面の状態の相関関係が明らかになりました。別の一例として、大学における化学物質の使用量、廃棄物としての排出量、環境への排出量、実験室の定期的な作業環境測定の実データを元に、総合的なリスク評価の解析も行っています。
環境安全は理系だけの問題ではありません。文系の中でも特に立法に関わる人には環境安全の素養を身につけてもらいたいと考えています。技術が進歩すれば、今の法律や規則では対応できないことも発生します。そのときに、新しい法律を作る必要がある。だから、法学も関係してくるのです。
複雑多様化した研究現場において、ダイナミクス計測とビックデータを用いた解析を組み合わせ、研究分野の違いや、実験作業環境や作業方法の違いによるリスク評価を比較することにより、研究現場のリスク削減に有効な対策の指針を得る、あるいは、制度化するといった、全体最適化を目的とした取り組みが今後必要だと考えています。
―センターの今後についてお聞かせください。
環境安全研究センターで培った教育のノウハウや研究成果は、学内だけでなく、広く国内外へ情報発信することが大学としての使命だと考えています。日本の環境安全を牽引していくだけでなく、アジア諸国、そして世界全体で取り組んでいく必要もあります。
この目的を達成する手段のひとつとして、環境安全に関する国際シンポジウム「ACSEL」を2014年に立ち上げ、1年ごとに開催しています。1回目は東京で行いましたが、2回目はインドネシア、その後は韓国、シンガポールと続きました。2018年の記念すべき5回目は、沖縄で開催。来年はインドネシア、その次は香港と先々についても決まっています。このように、毎年アジアのどこかの国で行って環境安全に関する研究と、研究現場を支える管理手法や教育手法の情報共有をしていきたいと考えています。
毎日研究で忙しい中、環境安全について考えるのは「面倒だ」と思う人もいるかもしれません。ですが、環境安全管理をきちんと行うことは、社会的責任であるとともに、自分たちの身を守るだけでなく、実験の精度を上げることにもつながります。良い研究を行うことと、実験室の安全な状態を作ることは、実は同じ方向を向いていると多くの人に知ってもらいたいですね。
<プロフィール>
辻 佳子(つじ よしこ)
東京大学環境安全研究センター長/東京大学大学院工学系研究科化学システム工学専攻(兼担)
1988年東京大学工学部合成化学科卒業。1990年同大学院工学系研究科工業化学専攻修士課程修了。同年株式会社東芝入社研究開発センター、1996年カリフォルニア工科大学勤務を経て、1999年より東京大学大学院工学系研究科化学システム工学専攻研究員に。2006年に博士号(工学)を取得。2007年より同専攻助教、2011年より東京大学環境安全研究センター准教授、2017年より同センター教授。2019年4月、同センター長に就任。
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