ストレスと脳を結ぶ免疫シグナル – 血中MMP8の役割解明

心の不調と身体の「心身相関」
現代社会において、ストレスは心身に大きな影響を与え、うつ病などのストレス関連疾患は重要な課題となっています。従来、脳は血液脳関門によって末梢免疫系から保護されていると考えられていましたが、近年の研究は神経系と免疫系が相互に影響し合う「心身相関」の重要性を示唆しています。
このような複雑なメカニズムの解明は、精神疾患に対する新たな治療戦略の開発に不可欠となっています。今回はストレスに対する感受性やうつ病の発症メカニズム解明に向けた、分子レベルの応答を追求した研究論文を紹介します。
ストレス応答の鍵はMMP8
本研究による極めて重要な発見として、血液中を絶えず循環している白血球の一種、すなわち骨髄由来の単球系細胞が産生する酵素「マトリックスメタロプロテイナーゼ8(MMP8)」が個人のストレス感受性やうつ病の発症メカニズムに深く関与していることを分子レベルで明らかにしました。
マトリックスメタロプロテイナーゼ(MMPs)と呼ばれる酵素群は、細胞外に広がるタンパク質の網目構造である細胞外マトリックスを特異的に分解し、その構造を再構築する能力を持つ一連の酵素ファミリーとして知られています。これらの酵素は、組織の恒常性維持、創傷治癒、細胞の遊走制御、そして炎症反応の調節など、多様な生理現象に深く関与しています。
その中でもMMP8(別名:好中球コラゲナーゼ)は、その名の通り、おもに好中球から産生され機能すると長らく考えられてきましたが、本研究は単球から生じるMMP8が精神神経疾患に関連する新たな機能を持つ可能性を示唆しました。
研究チームは、うつ病(MDD)と診断された患者さんの血清、および、慢性的な社会的敗北ストレス(CSDS)という確立されたうつ病の動物モデルにおいてストレスに脆弱な反応を示したマウスの血液を分析しました。ヒトうつ病患者の血清MMP8レベルは健常対照群よりも高く、自己申告による知覚ストレス尺度とも正の相関が認められました。
マウスでは、慢性的な社会的敗北ストレス後の血漿MMP8レベルはストレス感受性マウス(SUS)で増加し、社会的相互作用(SI)比率(ストレス感受性の指標)と負の相関を示しました。メスのマウスでも同様に、10日間の慢性的な社会的敗北ストレスおよび21日間の慢性的な変動ストレス後に血漿MMP8レベルの増加が見られました。
この発見は、精神疾患の病因研究に新たな視点をもたらしました。
発見に至る道筋
この注目すべき革新的な研究成果は、Natureに掲載された論文「Circulating myeloid-derived MMP8 in stress susceptibility and depression」(ストレス感受性およびうつにおける循環血中の骨髄由来MMP8)として公表されました。
この大規模な研究プロジェクトには、米国のアイカーン医科大学マウントサイナイ校、アイルランド共和国の名門大学であるトリニティ・カレッジ・ダブリン、そしてブラジル連邦共和国のサンタカタリーナ連邦大学といった、世界トップレベルの複数の研究機関が名を連ねており、分野横断的かつ国際的な共同研究の輝かしい成功例と言えます。
論文の筆頭著者であるフルリン・カトマス(Flurin Cathomas)博士や、本研究全体を主導したシニアオーサーであるスコット・ルッソ(Scott Russo)博士らが率いる研究チームは、うつ病患者から得られた臨床検体の解析と、社会的ストレスを負荷したマウスモデルを用いた基礎実験とを巧みに組み合わせた、トランスレーショナルな研究アプローチを駆使しました。
具体的には、まず、うつ病と診断された患者群と精神的に健康な対照群から血液サンプルを採取し、血清中に含まれるMMP8濃度を精密に比較解析しました。並行して、マウスに慢性的な社会的敗北ストレスを与え、その反応に基づいてストレス感受性マウスとストレス抵抗性マウスを選別し、これらのマウスの血液および脳組織におけるMMP8の発現量の変動を詳細に追跡しました。
MMP8の作用機序を探る
MMP8発現量の測定には様々な手法が用いられ、患者血清およびマウス血漿中のMMP8発現量は、ELISAにより測定されました。マウスの血漿中の他のMMPタンパク質(MMP2、MMP3、proMMP9、MMP12)の濃度を同時に測定するため、マルチプレックスアッセイが行われました。
具体的には、MILLIPLEX® Mouse MMP Magnetic Bead Panel 1 および Panel 2(マウスMMP磁気ビーズパネル)を用いた測定の結果、MMP3には軽度の上昇が見られましたが、これはストレス感受性マウスだけでなくストレス抵抗性マウスでも同様であり、MMP8のみがストレス感受性マウスで特異的に上昇することが確認されました。
さらに研究チームは、血中MMP8濃度の上昇がどのように脳機能に介入し行動変容を引き起こすのか、そのメカニズムを詳細に解析しました。マウスを用いた実験により、報酬系や情動に関わる側坐核でのタイトジャンクションタンパク質Claudin 5(Cldn5)を枯渇させ血液脳関門(BBB)を障害すると、ビオチン化組み換えMMP8の脳実質への侵入が増加しました。ストレス感受性マウスでは慢性的な社会的敗北ストレスによってBBBの透過性が亢進していることから、BBBの機能低下がMMP8から脳へのアクセスに関与していることが示唆されました。
側坐核に到達したMMP8はタンパク質分解酵素としての機能により、神経細胞を取り囲む細胞外マトリックス(ECM)の構造を物理的に変化させることが突き止められました。
本研究の意義と今後の展望
本研究ではMMP8がストレス誘発性の社会的回避行動と因果関係があるかについても検証されました。組み換えMMP8を亜しきい値のストレスと組み合わせて投与すると、社会的相互作用の指標が低下し、ストレス感受性が促進されました。
一方、末梢の白血球においてMmp8遺伝子を特異的に枯渇させたキメラマウスを作成して慢性的な社会的敗北ストレスを与えたところ、これらのマウスは社会的回避行動が減少しました。
これらの一連の検証により、末梢免疫系、特に単球系細胞由来のMMP8が、血液脳関門を越えて脳に影響を与え、ストレス感受性とうつ病に深く関与するという、これまで想定されていなかった生物学的メカニズムを詳細に解明しました。これは、私たちの「心」と「身体」が結びついているという「心身相関」の古くて新しい概念を裏付ける、具体的な分子レベルでの証左となり、精神疾患理解における脳中心主義的な視点からのパラダイムシフトを促進することでしょう。
これまで、うつ病をはじめとする多くの精神疾患に対する薬物治療戦略は、おもに脳内におけるセロトニンやノルアドレナリン、ドーパミンといったモノアミン神経伝達物質の量的・機能的なバランス異常を是正することにその主眼が置かれてきました。MMP8が精神疾患に関与するという発見は、従来の薬物療法とは異なる、血中MMP8の産生量や酵素活性を制御することによる新たな治療戦略の可能性を示唆しており、精神疾患の診断法や治療法開発に新たな希望をもたらすものです。
参考文献
本記事はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスCC BY 4.0のもとで下記の論文を参考にして作成しています。
Cathomas, F., Lin, HY., Chan, K.L. et al. Circulating myeloid-derived MMP8 in stress susceptibility and depression. Nature 626, 1108–1115 (2024).
https://doi.org/10.1038/s41586-023-07015-2
関連アプリケーション紹介
上記の論文で記載されている実験手法に関連するツールをご紹介いたします。
MILLIPLEX® マルチプレックスアッセイ測定
マルチプレックスアッセイは、生体から得られる少量のサンプルから複数の目的タンパク質を同時に測定する方法です。専用のアッセイキット(MILLIPLEX® マルチプレックスアッセイキット)用いると、ヒトや動物のサンプルに含まれる各種のバイオマーカーやシグナルタンパク質を迅速かつ正確に測定することができます。
マルチプレックスアッセイの原理
お客様の声
血液脳関門細胞(BBB細胞)
hCMEC/D3細胞株は、ヒト側頭葉微小血管に由来する一次細胞を不死化し、脳内皮細胞(CEC)を選択的に単離してクローン化した細胞株です。このヒト由来の脳微小血管内皮細胞はBBBのモデル細胞として、中枢神経系や薬物輸送の研究に多く用いられています。
BBB hCMEC/D3細胞株
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