<研究最前線>シングルセル解析技術で解明される細胞の運命
「シングルセル」を解析すると何がわかるのか
シングルセル解析技術は、複数の細胞集団の平均値を解析する従来の方法とは異なり、一細胞レベルでの遺伝子発現やそれを制御するメカニズムをDNAレベルで詳細に解析することを可能にしました。、今後ますます注目される「シングルセル解析技術」を早い時期に導入し、細胞運命の解明に取り組んでいる京都大学iPS細胞研究所(CiRA)未来生命科学開拓部門の渡辺亮先生にその最先端を伺いました。
世界で3台しかなかったシングルセル解析の先駆け
―先生がシングルセル解析を始めたのはいつからでしょうか?
研究に取り入れたのは2011年です。それまでも技術自体は存在していたのですが、ノイズが大きかったり、一度に解析に扱える細胞が1個ずつだったりして、まだ使い物にならないと考えていました。それが、マイクロ流路を使った装置が登場により数十個のシングルセルを同時に解析できるようになって、コストも下がってきました。それでこの装置を取り入れたわけですが、当時はまだあまり誰もやっていない状況でした。当時この最新のシングルセル解析の装置があったのは、世界の中でわれわれを含めて3カ所だけでした。
―なぜシングルセル解析に取り組もうと思ったのでしょうか?
私たちはiPS細胞やiPS細胞から作製される種々の体細胞の個性をDNAやRNAレべルで考察する研究を行っています。その研究自体は珍しいものではないので、差別化を図る必要がありました。従来の研究は、細胞を集団として捉え、その集団に存在する個々の細胞の個性を考慮していませんでした。そこで、シングルセル解析なら他の人に見えない何かが見えるのではないかと考えたのです。
もちろん、「シングルセルで解析したら何かわかるかも」という発想自体は誰でも思いつくのですが、当時のシングルセル解析技術はまだ信頼性が低く、本当に使えるのかどうかわからなかった。結果が信頼できるのかどうか、みんな警戒していました。その中で、僕たちは、思い切って飛び込んだのです。この技術こそ、これからわれわれが調べたいことに対して答えを示してくれるものだと信じ、研究室全体をシングルセル解析の方へシフトしました。
―早く始めたことでデメリットもメリットもあったと思います。
そうですね。今ではシングルセル解析の技術も進歩し、試薬や装置のコストも下がってきています。一度の解析で扱える細胞の数も増え、取り入れる研究室も出てくるようになりました。あとから導入した研究者たちとの、見えないところでの競争です。
早く始めた強みとしては、シングルセル解析に対する知識や経験をしっかりと積み重ねられているということが言えると思います。シングルセル解析の実験操作自体は、プロトコールがしっかりしているので、そこまで難しいというわけではないのですが、どんな条件のときにシングルセル解析をすればよいか、細胞の数、コストとの兼ね合い、装置にかける前段階の細胞の調整方法など、長くやっている人にしかわからないものがあるんです。
―歴代のシングルセル解析装置がズラリと並んでいますね。
初代の装置(写真最奥)も現役で活躍しています。基本的に技術が進むにつれて、各装置が一度に解析できる細胞の数は増えていきます。もちろんたくさんの細胞を同時に解析できる方が実験の効率はいいのですが、数は少なくても高い精度や感度を出力する昔のタイプの方がよいときもあります。それに、長く使っている装置にはノウハウが蓄積されています。ですから、場合によってうまく使い分けているんです。ひとつの技術にこだわらず、経験をもとに複数のスキルを適材適所で使っているのが、僕たちの研究室の特長と言えるかもしれません。
シングルセル解析で細胞の運命決定の謎を解く
―シングルセル解析でどんなことがわかったのでしょうか?
一般的に、細胞の変化を観察する場合、時間を変えてサンプルを回収し、解析します。しかし、それでは恣意的に決めた時間の、細胞の状態しか見ることができません。細胞は常に変化し続けています。さらに、細胞自体の個性も考慮しなければいけません。たとえば同じように培養をスタートしても、細胞分裂のスピードや細胞の状態に個性があるんですね。細胞周期のS期に入っている細胞をとってきたとしても、G1から来たばかりの細胞と、G2に移行する直前の細胞では違います。このようなジレンマをシングルセル解析は解決してくれるのです。
たとえば、100個の細胞を解析すれば、100個それぞれについて、G1期にいるか、S期なのか、S期の中でも入ったばかりか、そうでないのかという具合に細胞の状態を知ることができます。
また、解析結果をもとに調べられた細胞の状態で並び替えれば、疑似的な細胞の時系列を作ることができます。どの時点で何が起こっているのかを詳細に解明することができるのです。個性が異なる複数の細胞を一緒に解析し、平均値を見るという従来の方法ではこれは不可能でした。
―シングルセル解析は再生医療の分野でも使われるのでしょうか?
2014年に理化学研究所の髙橋政代博士らのグループで、世界で初めて患者さんにiPS細胞から作製された細胞を移植する手術が行われました。そのときに、私たちは移植用の網膜色素上皮細胞の性質をシングルセルレベルで評価を行いました。移植前に、異質な細胞が混ざっていないかを精度の高い方法で確かめることができたのです。
また、他にも、iPS細胞からより効率よく目的の細胞を作るためにも、シングルセル解析技術を使って研究を行っています。iPS細胞から目的の細胞を作ろうとするときに難しいのは、同じように培養して同じ因子をふりかけても、細胞によってレスポンスが違うという点です。
シングルセル解析なら、どの時点で細胞の運命が変わってしまったのかを知ることができます。たとえば、膵臓のβ細胞への分化誘導効率は非常に低く、数%のiPS細胞しかβ細胞に変化してくれません。が、どういう原因で他の細胞になってしまうのかを解明できれば、分化誘導効率をより高くできるかもしれません。そうすれば、コスト面でも効率の面でもずいぶんベネフィットがあります。実際に、ある細胞への分化を促す因子を同定し、その添加によって分化誘導効率を劇的に向上させた例もあります。
DNAを1本単位で見るという発想
―1つの細胞単位で解析できると、見える世界が変わってくるんですね。
そうなのです。さらにわれわれの研究室では、発現している遺伝子が2本のDNAのどちらから発現しているかを明らかにするアリル特異的発現の解析も行っています。人間は、父親由来のDNAと母親由来のDNAを1本ずつ持っていますが、あるRNAが発現しているときに、これが父親由来のDNAから発現してきたものか、それとも母親由来のDNAから発現してきたものかを調べるのです。
これがわかるとどんないいことがあるかというと、たとえば、従来は、2本のDNA由来のRNAの平均値を見ていたため、DNAに変異が入っていたらすべての細胞で表現型がでるとみなしていました。でも、DNAを1本単位で見ることができれば、変異DNAからRNAが発現しているのかまで調べられ、真に変異アリルからRNAが発現している細胞のみを標的にした、より精密な創薬へつなげることができます。
―2本のDNAをどうやって区別するんですか?
コンピューターによる情報解析の手法を使います。イン・シリコですね。私はイン・シリコという言葉を聞いたら逃げちゃうんですけど(笑)2本のDNAを区別できるような配列解析を行うプログラムを組んでいます。
日本発の技術を世界のスタンダードに
―今後の研究について目指していることなどあればお聞かせください。
この研究室を見回してみてもそうなのですが、メルクのものも含め、研究の試薬や装置は海外発のものが多いんです。日本ならではのことができないか、と考えたときにまず日本発のiPS細胞という技術を思いつくわけです。2014年にiPS細胞由来の網膜の細胞が患者さんに移植されたときに、シングルセル解析をして「ちゃんと網膜の細胞になっていますよ」と確かめたのは私たちが初めてで、世界ではまだ意識されていなかった一細胞レベルでの証明を成し遂げることができました。
このように、自分たちから世界に何か発信していくことを続けたいと思っています。iPS細胞にアクセスしやすい環境にいることも活かせるでしょう。もちろん、iPS細胞だけに限りませんが、世界基準の新しいスタンダードを発信していきたいですね。たとえば、シングルセル解析の成果は、「みんな細胞は均質だと思っているけれども、実はそうじゃないよ」というメッセージでもあるわけです。
これから技術が発達して、誰でも気軽にシングルセル解析をやる時代が来ると思います。そうなったときには、私たちは次の研究に取り組んでいたいです。今もこの先も、自分らしい研究ができたらと思っています。
プロフィール
渡辺 亮(わたなべ あきら)
京都大学iPS細胞研究所未来生命科学開拓部門特定拠点助教。1975年新潟県生まれ。東京理科大学工学部第一部工業化学科卒業。東京大学大学院工学系研究科修士課程および博士課程修了。2003年博士号取得(工学)。東京大学先端科学技術研究センター博士研究員を経て、2009年より現職。
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